桜のお花見 高遠城址公園の下見に行ってみた 第三回

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高遠城址公園 二の丸 つづき

二の丸には、まだまだ興味深い様々な物があります。公園内のランドマークとして役立ちますから頭の隅においておかれますと便利です。

天下第一の桜碑


天下第一の桜の碑

桜雲橋の手前に建てられています。「内田孝蔵 書並びに建」 昭和9年4月 「天下第一の櫻」という内容が勢いよく堂々と刻まれています。公園内ではかなり大きな石碑です。

【 コラム 】

私の思う天下第一の桜の理由

「世界には他にも素晴らしい桜がたくさんあるのにどうしてここが天下第一なのですか?」という声もお聞きすることがあります。無理もないご質問だと思います。私の個人的な考えですがお答えしてみようと思います。

まず前提として、タカトオコヒガン桜以外のこの世界にあるすべての素晴らしい桜を否定するものではないのでそのあたりのところをご理解いただきたくお願いいたします。

タカトオコヒガン桜の場合はいくつかの理由が重なって、天下一と思ったのだと思います。

1.タカトオコヒガン桜は特殊な桜

実はタカトオコヒガン桜は固有種で、その群生は世界中で高遠城址公園にしかないのです。したがって、物理的に見て世界にたった一つのものではあるのですね。そのことを裏付けるようにタカトオコヒガン桜は昭和35年2月には天然記念物に指定されています。その花は上品な桜色で玉のように寄り添って可愛らしく咲く姿が印象的です。

2.タカトオコヒガン桜が咲く高遠城址は歴史的に興味深い場所

このタカトオコヒガン桜が咲く高遠城址公園は織田信長と武田勝頼の戦いに際し、武田の大将武田勝頼の弟である仁科五郎盛信が守備し、激戦の末、壮絶な最期を遂げた悲運の城であります。守備していた女性達もナギナタを持って織田軍に突撃して行き全滅しました。哀しい歴史が背景にあるのですね。落城の様子を想像すると胸に迫るものがあります。

3.タカトオコヒガン桜を植えた人の思いがある

この桜を高遠城に植えたのは廃藩置県で城を去ることになった侍です。進徳館という当時は珍しかった学校(藩校)で高度な教育を受けてきた誇り高い人たちです。その様々な先見の明には脱帽です。その人たちの城を去る哀しみを思うと胸が痛くなります。

4.当時はまだお花見が盛んではなかった

この碑が建てられた昭和9年は今の日本ほど桜を植えていなくて、今ほどお花見が盛んではなかったようです。花の名所も今ほど多くはなかったので当時の本数を考えても誇りに思える桜だったのではないかと思います。

結論

希少な桜と歴史の非情とロマン、侍の廃城への思いなども加わり、それらの背景を想いながらこの桜を見上げると、タカトオコヒガン桜は私たちに特別な感情と誇りを抱かせるのです。この碑を建てた先達はそのような魅力を表現したくて「天下第一の桜」と書いたのではないかと想像しています。

二の丸の様子


二の丸 南廓方面へ向かう通路

最盛期には人でいっぱいになります。この左手奥には露店が並びます。土の部分は意外に広いのでシートを広げてお花見をする姿もよく見られます。天気の良い暖かい日なら気持ち良さそうです。


二の丸

振り返ると高遠閣が見えます。そちらの方向が北ゲート(北口)になります。見えている正面右側にもお土産や食べ物の露店が並びます。


二の丸

痛々しい樹もありますが時間が経つとまた枝が復活してくることもあるようです。


桜雲橋

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この橋は撮影ポイントの一つで人気があります。この橋の下は空堀なので基本的には水はありません。


二の丸と本丸の間の池

わずかですが池には水があります。最盛期にはこの池に桜と桜雲橋を映して撮影するのが人気です。

荻原井泉水の句碑


荻原井泉水の句碑 (おぎわらせいせんすいのくひ)

二の丸の南端にあります。「花を 花に来て 花の中に坐り 井泉水」と書かれています。
この碑は県立公園になったことを記念して建てられたものだそうです。
建立は昭和35年4月6日でした。 建立者は 原 保男。賛助者は 宮澤胤勇・原 義次・北原 武・前田若水です。

無字の碑


無字の碑

二の丸の南端にあります。これは碑文が全く無い石碑です。この「無字の碑」は昭和10年2月15日に建てられました。この碑は高遠出身である伊沢多喜男のために建てられました。伊沢多喜男は帝国大学を卒業後、警視総監や台湾総督、東京市長(今でいうと東京都知事)、貴族院議員、枢密院顧問官を歴任しました。勲一等も受賞しました。
これだけの人物なのになぜか何も書かないで建てられてしまったのです。どうしてそんなことになってしまったのでしょうか? その理由は隣に建つ「無字の碑説明碑」を読むと理解できます。


無字の碑 解説碑

二の丸の「無字の碑」の隣にあります。碑文の全く無い「無字の碑」に対して、その説明を試みたのがこの碑だと思います。
この「無字の碑説明碑」は昭和24年の春に有志によって建てられました。文面は少し難しい書き方になっています。

事の経緯は以下のようなものです。

出世した上に地元の教育、治山、治水に功績の大変あった伊沢多喜男を讃え、また将来に渡り、皆の模範となるように碑を建てようと人々が計画をしていました。この事が伊沢多喜男の耳に入りました。元々高潔で立派な人物だったので、「私の存命中に碑を建てることなどは許さない!」と強く建立を止めました。ところが、碑を建てようとした方々も頑固でしたから「どうしても建てさせて頂きたいのです!」と建てることを譲りません。そのために碑文のないままに「無字の碑」を建立してしまったのでした。

このエピソードは、伊沢多喜男のお人柄を表すものであると思います。また伊沢多喜男を慕っていた高遠の人々の心意気でもあります。

私は無字の碑の話は高遠の美談の一つであると思っております。


無字の碑解説板

二の丸南東側のトイレ


二の丸南東側の常設トイレ

おそらくは水洗トイレなのではないかと思います。


トイレの冬季閉鎖の張り紙

このトイレは冬の間は閉鎖されているようです。

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よいお花見を!