欧州ミュージアム巡りの旅 32 (旅行連載小説短編) 

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シャンゼリゼ通り

シャンゼリゼ通り(Champs-Élysées)は、パリ市内北西部にあり第8区を横切っています。全長は約3キロメートル、幅は70メートルの大通りです。パリ市内で最も美しい通りとされています。マロニエ並木のある道です。東のコンコルド広場から、西のエトワール凱旋門までを結んでいます。パリの人気観光スポットの一つです。

この通りの東にあるルーヴル美術館、カルーゼル凱旋門、テュイルリー庭園、コンコルド広場のオベリスク、シャルルドゴール広場にあるエトワール凱旋門、ラ・デファンス地区のグランダルシュは一本の線上にあります。この直線は「パリの歴史軸」と呼ばれています。

毎年7月14日のパリ祭の日には、大統領も謁見するヨーロッパ最大のパレードがシャンゼリゼ通りで行われます。

また、このシャンゼリゼ通りは、自転車レース「ツール・ド・フランス」の最終ステージのコースおよびゴールとして1975年以来毎回使われています。

シャンゼリゼは毎年12月31日には歩行者天国となり、新年を祝うイベントが行われています。とてもにぎやかだそうです。

「わあー。すてき!」

「そうだね。」

「有名なブランド品のお店が並んでいるわ。お洋服に香水、バッグなどね。」

「うんそうだね。あっ!」

「どうしたの?」

「フランスの有名な自動車会社のショールームがあるよ。」

「そうね、確かにあるわね。」

二人が見つけたお店以外にも映画館もあるようです。お店の外に席を設けているレストランなども多く、華やかでにぎやかな通りです。

「豆知識なんだけどね、シャンゼリゼ劇場はシャンゼリゼ通りにはなくて、東にあるモンテーニュ通りにあるそうだよ。」

「へえ、それ面白いわね。」

「そう?良かった。それにしても、こんな通りをお散歩したら素敵だろうね。」

「そうね、きっと素敵ね!」

バスは幾度か停留所に停まりました。やがてバスは凱旋門に差し掛かります。

凱旋門(がいせんもん)

実は凱旋門は多数あるので、ここのものはエトワール凱旋門と言うと確実なのだそうです。ただし、エトワール凱旋門が立っている広場は1970年からシャルルドゴール広場と改称されました。それまではエトワール広場と言っていたようです。だからエトワール凱旋門なのですね。

日本で単に「花」と言えば「桜」を指すように、単に凱旋門と言えばエトワール凱旋門のことを指すと思って良いようです。

シャンゼリゼ通りの地下入口から地下道を通って近づくことができます。料金を払えば、らせん階段を上まで登ることもできます。エレベーターは基本的に体の不自由な人のために使われているようです。
 
エトワール広場に集まる放射状道路は、この凱旋門を中心に、12本の通りが延びています。シャンゼリゼ通りもそのうちの一本です。その放射状道路の形は地図上で「星」のように見えます。この広場は「星の広場(エトワール広場)と呼ばれていました。そのため、「エトワール広場の凱旋門」が正式名称なのですね。「凱旋門」は勝利の記念碑です。
この凱旋門は古代ギリシアや古代ローマを模範とする新古典主義建築です。 
エトワール凱旋門は、1806年に、ナポレオン・ボナパルトの命で建設が始まりました。ルイ・フィリップの王政復古時代である1836年に完成しました。ナポレオンは凱旋門が完成する前に既に生涯を終えていましたから、彼がこの門をくぐることができたのは1840年にパリに改葬された時でした。

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「ああ、あれが凱旋門なのね。」

「うん、そうだね。」

「現在は凱旋門を車でくぐることはできないのね。」

「そのようだね。それにしても大きなものだね。」

「本当に、パリを象徴する門だけのことはあるわね。」

いくつかの停留所に停まった後、エッフェル塔の停留所に到着しました。

エッフェル塔

エッフェル塔はパリ7区、シャン・ド・マルス公園の北西に位置する電波塔です。エッフェル塔という名称は、塔の設計及び建設に当たったギュスターヴ・エッフェルに由来するそうです。

1889年にパリで第4回万国博覧会が開催されることになりました。その準備として1886年にパリ万博の目玉として建造する物のコンペティションが行われました。その結果満場一致で選ばれたのがエッフェル塔です。鉄橋の建設が得意だったエッフェル社のモーリス・ケクランとエミールヌーギエが発案し、ステファン・ソーヴェストルが修正したものを社長ギュスターヴ・エッフェルが賛同し売り込みました。

1887年1月28日に起工式が行われました。そしてエッフェル塔建設は開始されたのです。1889年3月30日には竣工。3月31日にはピエール・ティラール首相らを招いて竣工式が行われました。 

当時としてはとても奇抜な外見だったために、建設当初は賛否両論でした。

1889年5月6日に開幕したパリ万博で、エッフェル塔は目玉となりました。エレベーター運行までの9日間にエッフェル塔に入場し、1710段の階段を昇った入場客の数は約3万人にのぼりました。エレベーターは5月26日に運行を開始しました。エッフェル塔は大盛況。11月8日の博覧会終了までの入場者数は189万人、1889年の入場者数は200万人を記録しました。

万博終了後は、エッフェル塔の来訪者は減少しましたが、それでも年間10万~20万人の入場者数を保っていました。1900年に再びパリで万国博覧会が開催されると、エッフェル塔は再び万博のパビリオンとして多くの観光客を集めましたが、その後、入場者数は低迷を続け、塔の権利がパリ市に移る1909年には解体されることが確実となっていました。しかし、1904年ギュスターヴ・フェリエが無線電波の送受信をする電波塔としての使用方法を提案しました。国にとって重要な建築物であるということになり、取り壊しを免れました。この電波塔としての役割は非常に重要でした。現代でもエッフェル塔は電波塔として使用されています。 FMラジオ5波、デジタルテレビ6波が送信されています。 
チエコとサブローはバスを降りてエッフェル塔に近づいて行きます。 

「さすがに大きいわね!どのくらいの高さがあるのかしら?」 

エッフェル塔を見上げてチエコは言いました。 

「そうだね。現在の高さは324メートルだね。」 

サブローも言いました。 

(つづく) 

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良い旅を!

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